6月22日の15時を過ぎた頃。ゆう(@Yu_U_taiyou)さんの叫びがメールの着信音とともに私のもとへ寄せられました。
「高3です。親から姉妹で差をつけられて、嫌です。進学や習い事などなど。両親は妹ばかりに金をかけて、優しくします。妹は父から一切暴力、厳しすぎるしつけを受けていません。(今は父は暴力はしません)」
綴られた淡白なメッセージ。そこから感じ取ったひんやりとした感覚は、ゆうさんの胸中を表しているかのようでした。
目次
姉妹で生じる「理不尽」な格差
「中3の妹が高校受験の準備をしているのですが、選んでいる高校は私立ばかりです。
一方、私は高3ですが、公立に通っています。『お金がないから公立に行きなさい』『大学もできれば国立で』と言われて公立に行っていますが、妹はそんなこと一言も言われていません」
「しかも高校に入ってみると校舎がボロボロで。『私立に行きたかったな』と言っても無視されます。あと、母は私の大学受験の用事(オープンキャンパスなど)は気にしないのに、妹と高校見学に行きます」
あからさまに妹との扱いに差がある、と訴えるゆうさん。その後も、理不尽な差別を象徴するエピソードが続いていきます。
「私を含めて、3人で出かけるついでに高校見学に行くこともありました。『しょうがないじゃん、付き合って』と言われますが、私が受験の時は『妹を付き合わせるなんてかわいそう、一人で行きなさい』と言われました」
私は学費や習い事以外でもそういう扱いの差はあるのか、尋ねてみました。
「はい。いくつかあると思います。例えば妹と2人で留守番をするとき、食事の指示を受けるのは私です。家事も多くは私がやっています。妹は手伝わなくとも母に何も言われませんが、私がうっかり忘れると叱られます」
ここまで聞いてみると、単に「タイミング的にゆうさんが差別感を感じてしまっている」とか、「妹も受験で大変なのだから」というような、一般論的な問題ではないことが浮き彫りになってきます。
さらに、ゆうさんは問題の本質に迫るようなエピソードを話してくれました。
「関係性の連鎖」という、虐待の正体
「姉の私は新しい服を着て、妹は私のお下がりを着ることがあります。そんなとき母から『妹はかわいそうね、古い服ばかり着て。姉は新しい服ばかり着れていいね』と言われました。母自身が妹として生まれた、ということも影響している気がします」
「父も昔から妹には優しくて、妹は暴力も厳しすぎるしつけも受けていません。今は私も暴力は受けていませんが、(当時は)酷かったです」
母親の原体験、つまり自身が妹として虐げられていた幼少期の経験が、今のゆうさんへの仕打ちとなっている可能性は十分にあるように思えました。また、父親まで扱いに差をつけていることを考えると、家族に心から頼れないゆうさんの孤独感は計り知れません。
私は、お父さんの「厳しい躾」にはどんな理由や背景があるのか尋ねてみました。
「んー、わからないです。なんでか私だけ嫌っていたみたいで、閉じ込められたり夜中に外に出されたりしました。(そうされた)原因は、妹の食事を手伝っていたときに上手くできず、母に(妹の食事を)お願いしたことでした。父は妹が好きすぎたのかもしれませんね」
夜中に外に放り出すという行為は、理由のあるなしに関わらず虐待と捉えてよいものです。仮に納得できる理由があったとしても、称賛される躾とは言えませんし、このケースに関しては理由があまりに理不尽です。
そのことをゆうさんに告げると、「これって虐待なんですか…?」とあっけに取られた返信が返ってきました。
ゆうさん自身、虐待という認識はなく「そういうものだ」と受け入れていたと言います。母親に父親のことを相談しても取り合ってもらえない、孤立無援の状況ではそうなるのも無理はありません。
ゆうさんを虐げる行為に、家族の誰も問題意識を持っていなかったことが、何より私をゾッとさせました。
家庭という「異世界」、家族愛という「呪い」は実在する
多くの当事者にとって受け止めるのは難しいことですが、ゆうさんのような立場にある方が「辛い」「理不尽だ」と思っている出来事は、紛れもなく、辛くて理不尽な出来事です。
しかし、家庭という小さな世界にいるとその世界のルールが強すぎて、その辛さを「感じてはいけないものだ」とか、「私がおかしいんじゃないか」と考えてしまいがちです。
さらに、家族を愛していればなお、素直な「辛い」という感情は、大好きな家族を恨む種子になりかねません。愛情を欲し、与えたがる優しい心の奥に広がる仄暗い底へしまわれていきます。
その優しい歪みが、いずれ自身や周りの大切な誰かを傷つける刃となってしまわないよう、認めてあげることが肝心です。
だから、もしゆうさんの状況に名前をつけるのだとしたら、はっきりと「虐待を受けている」と名付けて良いですし、自信を持って不満を抱いていいと伝えました。
その上で、改めて両親についてどのように考えているのか、ゆうさんに尋ねてみます。
「今のところ、父とは口を利いていません。あまりに理不尽なことがあったので。母は好きです。というか、友達もほとんどいないので頼れる人が母しかいないから好き、という感じです」
妹についてはいかがでしょう。
「妹は口が悪くて、話すとメンタルボコボコにされるので最近は必要最低限の会話しかしていません。どちらかといえば嫌いです」
例えば、妹がいなければ愛してもらえたのに…というような、恨みのようなものはありますか?
「そこまでのことを思ったことはありませんが、ときどき私と母だけで過ごせると、幸せです」
父親と妹は嫌いと断言したゆうさん。それでも、母親と二人で過ごしているときは普通に話せるそうでした。
母親に『妹がいるとそっちに気を向けるから悲しいよ』というように、現状の不満や苦しみを打ち明けたことはあるのか、尋ねてみます。
「母にちょいちょい相談しますが、ぜんぶ『しょうがないよね、どうしようも無い』でした。母は妹に甘くしている自覚はないと思います。『しょうがない』というのは、『妹はそういう性格だからしょうがない』という意味だと思います」
つまり、ゆうさん一家の中では、ゆうさん以外にその状況で困っている人はおらず、理解者もいない状態にあると言えます。
もっと直接、「妹にだけ甘いけど、それで私は苦しいんだよ」と母親に話したことはあるのでしょうか?
「そう何度か言ってみたのですが、『そんなことないよ、どっちも大事にしてるんだよ』と言われました。基本的に母と言い合うと母が大泣きして何も喋らなくなるので、あまり強く言えず」
母親のその発言も、本音なのかもしれません。
親にハグしてもらえなかった子供は、親になったあと、子供にハグをすることに無意識で抵抗が生じます。自分が与えてもらえなかったものは、愛する自分の子供に対してすら、与えてあげられないものです。
逆に、自分が与えられたものは与えたくなります。それが「厳しすぎる躾」や「姉妹間での格差」という、理不尽で、子供の人格をずたずたにしてしまう危険を孕んだものであっても。それは子を愛する気持ちとは関係なく生じてしまう、耐えがたい衝動です。先述した「歪み」が放出されている状況とも言えるでしょう。
被虐者が繋がれやすい”認知的不協和”という鎖
そんな中で、ゆうさんはどのような結果を求めているのか、理想の関係性はどのようなものなのか、という点について尋ねてみました。
「親にはどちらかを贔屓しないで接してもらいたいなあと思っていますが、若干諦めてます…」
そのせいか、ゆうさんからは孤独感を強く感じました。それでも「贔屓されるのは、私が悪い子供だからだ」というような自罰的な思考にはなっておらず、すごく安心しました。
「確かに、『自分が悪いから〜』とは思っていません。安心というのはどうしてですか…?」
自罰的になるのは、心理学的にいうと認知的不協和という作用なんです。
例えば「子供って愛されるものだよね」という共通認識に対して「子供なのに愛されてない」という現実があったとします。共通認識と現実の間にあるギャップは苦しいものなので、それを埋めるために「いま与えられているこれが愛なんだ」「私が愛されるような人間じゃないから愛してもらえないんだ」というように、認知を歪めてしまいます。
無理やり論理を結びつけることで、ギャップをなくし、ストレスを緩和しようとするイメージです。
その反面、手痛いデメリットも生じます。自信を失くしたり、もっと愛情を得るために過激な行動をとったり、という悪循環に陥ってしまうことも多くあるので、ゆうさんがそうでなくて、良かったなぁと思いました。
ただ、行き過ぎたしつけとか、姉妹間で扱いの差がひどいことを正しく認識してみると、受け取り方が変わるのかな、と思います。
お母さん自身が妹として幼少期を過ごしたから、無意識で妹を贔屓してしまうことを理解すると、子供として納得できないことでも人として納得できるかもしれません。「そういう辛さを味わってきたんだなぁ…」みたいに。
お父さんや妹さんのことは分かりませんが、辛く当たるのには、なにか理由があるのかもしれません。
いま、ゆうさんが辛いことやその理由を全て理解して受け止めるべきだとは思いません。感情としてそれらを飲み込むのはとても難しく、どこかで我慢になってしまうからです。
なので、今はただ両親に対して「不十分な大人のまま親になってしまったのかな」という程度に受け止めておいて、不満に感じることはしっかり怒っていいと思います。
直接伝えるのは難しいと思うので、こうしてcotonohaに吐き出したり、どこかに愚痴を書き殴ったりしても良いと思います。そうして、ゆうさんが大人になったとき、初めてお父さんやお母さん、妹さんと「大人」として関われる日が来ると思います。
そのときに、いま感じている不満や、お父さんお母さんの過ごした幼少期、そこで抱えたトラウマなどを覚えておくと、親と子ではなく、一人の人間と人間としてお父さんやお母さんを理解する手助けになるんじゃないか、と思っています。
「そうですね…父も母も小さい頃いろいろあったと思うので、仕方ないのかもしれませんね…。今日cotonohaさんにお話して少しすっきりしました」
本当に良かったです、今回限りと言わず、いつでも気軽に相談してください。そういえば、ゆうさんとお母さんは少し依存関係にあるのかもしれないと思いました。
「母に依存しているのは当たっていると思います。何かあるとちょっとしたことでも話してるので母がいないと生きていけないです」
それなら、進学や就職を機にして、一人暮らしをしてみるのも良いかなと思います。
「ありがとうございます。一人暮らしは考えたことがなかったので、これから考えてみます」
ゆうさんが抱えている孤独感や、家庭内で生じている不和。それらはきっと、ゆうさんが自立したときに、形を変えて、改めてゆうさんや他の家族の前に立ちはだかるのでしょう。
今のままの状況でいるよりも、両親や妹と精神的な決別を行うべきではないか、と強く感じたインタビューとなりました。
取材先:ゆう(@Yu_U_taiyou)
取材・執筆:小野澤 優大(@issinjou)
あとがき:こんな時代に私たちができることは、世界のハードルを下げることに他ならない
ゆうさんの取材を進める中で、再確認したことがある。分かっていたことだけれど、日本や世界には、救いようのない話が溢れんばかりに蔓延している。
ゆうさんのお母さんだって、いっぱいいっぱいなのだろう。お父さんだって、ゆうさんに暴力を振るいたくて子育てをしていたわけじゃないはずだ。誤解を恐れずに言うと、こうした話はもう珍しいものではなくなった。
cotonohaには、連日多くの相談が届いているし、明かりが点いているあのマンションの一室では若い夫婦の間に生まれた赤ちゃんが泣き止むまで殴られている。あの一軒家のお風呂場では、性自認の特殊さを理由にアイデンティティを喪失した学生が手首にカッターナイフを突き立てている。
こうした状況を作り出しているのは、少し上の頭が固い世代の方々…ではない。
私たち――少なくとも今この文章を読んでいるあなたと私――だ。私もあなたも、この世界に生きている以上、当事者だ。とはいえ、ゆうさんの語ってくれた世界とは全く無縁の世界で生きてきた方も多いし、そういう方に「同じ重さの荷物を背負え!」と申し付けるのはあまりに理不尽だ。
それでは、この記事を読んだ方や、現状を知ってしまった私たち「当事者」にできることはなんなのか、考えてみた。きっと「ただ受け入れること」なのだと思う。
今この瞬間も、目を覆いたくなるような、想像を絶するほど苦しく長い夜を強いられている人が、同じ国、同じ県、同じ街のどこかに存在しているのだと。日本は○○に比べれば〜などという詭弁は、いらない。目を開けて、いま私たちが生きている世界と対峙することが、この世界の「当事者」になるということなのだと思う。
そして、さらに少し余裕のある方は、世界の当事者になった上で、少しずつ、無理のない範囲で、「世界で生きることのハードル」を下げる手伝いをして欲しい。
日本は○○に比べれば〜といった発言は、一見すれば筋が通っているかもしれない。だけど、ただでさえ苦しい思いをしている人からすれば、その一言は世界で生きるハードルを押し上げる一言になりうる。
「○○で生きている人はもっと辛いのだから」と、自分の苦しみを一蹴されてしまったら、もう苦しいと声を上げることもできなくなってしまう。
そうならないよう、一緒にハードルを少しずつ下げていきましょう。そして、多くの人がそうしているように、自分の目を眩ませるために楽しいことや、嬉しいこと、くだらないことを味わうのではなく、甘苦をすべて受け止めた上で、本当に楽しいことや嬉しいこと、くだらないことで笑い合いたい。
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