生きていれば、どれだけ快活でポジティブな人間であっても、一度や二度くらいは死んでしまいたい夜と対峙する羽目になる。
僕はと言えば、根暗だし、ネガティブだから、三日に一度くらいのペースで死にたい夜が訪れる。一度や二度なんてレベルじゃない。
死にたい夜が訪れる理由はさまざまだけれど、僕の場合は、たいてい「不安」や「焦燥」が原因だ。
自分でも気づかないうちに溜まっていったストレスだとか、意識していないけれどずっと我慢している何かが、夜の静寂に紛れて近づいては、ゆっくりと首をもたげて僕の喉元の柔らかい皮膚に毒牙を突き立てる。
廻り始めた毒は思考を侵して、正常な判断力を失わせる。うまくいっていることも、大好きなあの人のことも、僕を大切に思ってくれている人のことすら、疑わしくなってくる。何もかもが間違いで、足元がガラガラと音を立てて崩れていくような、そんな感覚に陥る。
こんな自分と付き合って、もうすぐ25年が経つ。死にたい夜には慣れたけれど、死にたい夜に感じる絶望感とか、虚無感には、一向に慣れる気配がない。
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死にたい夜は本当に苦しい
そんな僕だったから、死にたい夜の過ごし方には、少しばかりの矜持を持っている。あくまで個人的な好みの過ごし方、という話だけれど。
たとえば「フッ軽の友達と飲みに行ってパーッと忘れちゃう」なんてのはナンセンスだ。酩酊してしまえば思考は鈍るし、毒の影響を軽減できるだろう。友人と過ごせば寂しさは紛れるし、絶望感も虚無感も味わわなくて済む。
だけど、その夜に「死にたいと思った自分」はなかったことにはできない。感じるはずだった「絶望感」や「虚無感」は依然としてそこにあり続ける。形やタイミングを変えて、いずれまたやってくる。
現代社会は、死にたい夜を遠ざけようとする。そんなものを感じる暇もないほどに「つながり」を提供して、孤独を紛らわせようとするサービスが、これでもかともてはやされている。
繰り返すが、その夜に「死にたいと思った自分」はなかったことにはできない。だから、遠ざけようとしても遠ざけられるわけがない。「死にたいと思った自分」がどこから来るのかと言えば、紛れもなく、自分自身の内側からやってくるのだから。
宇宙の果てを考えて途方もなくなり、不老不死を考えて行き場のない恐怖に震え、死後の世界を夢想して涙を流す。死にたい夜は苦しい。さっきまでの自分が思いもしなかったことが、さも当然の思考結果であるかのように意識へと運ばれてくる。
誰かによってもたらされる苦痛ではないからこそ、逃げられないし、いつやってくるのかも分からないし、対処法も分からない。そんな死にたい夜をいくつも超えて、僕らはまた、何でもない顔をして昼間を生きている。
死にたい夜の特効薬を見つけよう
初めて死にたい夜と向き合ったのは、14歳くらいだったかもしれない。もしかしたらもっと早い段階(小学生くらい)に死にたい夜が到来していたのかもしれないけれど、まともに向き合えるようになったのは中学生くらいの年だった。
その夜、僕は新潟県の郊外にある団地の一室、六帖の部屋に佇んでいた。
窓の隙間から冬の隙間風と一緒に夜闇が入り込んでこないようにカギとカーテンを閉めて、スマートフォンを握りしめていた。無性に世界と繋がりたくて、でも世界のどこにも答えがないことも分かっていて、一縷の望みに賭けるようにLINEやTwitterを開いてはまた閉じることを繰り返していた。
アプリを開くたび、「この絶望感や虚無感を相談できる友人はいないのだ」という事実を突きつけられているようで、iPhone4sがやけに軽く感じたことを覚えている。誰にも相談できない、心の底から沸き立つ恐怖に、僕はゾッとした。
ゾッとしたから、どうにか吐き出したくて、僕はパソコンの電源を点けて、小説を書き始めた。誰に見せるつもりもない、自分のためだけの駄文を書き続けて、ふと顔を上げると朝になっていた。
文章の世界に没頭することで、僕は死にたい夜を何とかやり過ごした。生まれて初めて、自分のなかにぽっかりとあいた真っ黒い空洞を見つめられたような夜だった。孤独は黒く、寂しく、同時にとても暖かいものだと知った。
それからというもの、僕は死にたい夜が訪れるたびに小説を書くようになった。書きたいから書いていたわけではなく、書かなければならない気がして、書かなければ死んでしまう気がして、自分のためだけの物語を空想し続けた。
二十歳を迎えた夜に部屋で一人で小説を書いていたときには、「ああ、僕は一生、こうして死にたい夜を越えていくんだろうな」と、はっきり自覚した。
今でもその癖は続いている。小説を一種のセラピーのように使うのはあまり褒められたことじゃない。だけど僕はそうすることでしか、自分のなかに巣食う絶望感や虚無感と向き合えないから、きっともうやめられない。それで生きていけるのならいいじゃないかと思うことも増えた。
何より、こうして誰かに「死にたい夜を越える方法」を伝えられるのであれば、僕の孤独も、孤独と向き合うためにもがいた日々も、ほんの少しだけ報われるような気がしている。
ケーキを焼く
僕は一時期、「さユり」というシンガーソングライターにハマっていた。
誤解を恐れずに言えば、ミオヤマザキをすこしポップにして、Amazarashiの文学的な要素を薄めて、YUIにメンヘラっぽさを足したような、可愛らしくて強烈な歌を弾き語る女性アーディストだ。
生死を直視させるような尖った曲もあれば、SNSによる匿名のコミュニケーションが増えたことを揶揄するような風刺的な曲も多く、現代を生きる若者の心に深く溶け込むようなテーマを、ロックを源流とした力強いメロディに乗せて歌い上げる姿が魅力的だ。
そんな彼女が2017年にリリースした「ケーキを焼く」という曲がある。
この曲を聞いてから、僕の死にたい夜の過ごし方に新しいレパートリーが加わった。お菓子作りだ。
死にたい夜は人生で最も劇的な夜になる
死にたい夜は、ただ蹲って過ごしているだけでは味気なく、苦しいままだ。
だから、少しだけ考え方を変えてみることをおすすめしたい。
「どうせ今夜は死ぬかもしれないんだから、普段はやらないことをしてみようかな」と、自分のなかにあるあらゆる枷をぶち壊してみてほしい。明日は早く起きなきゃ……とか、やったことないし……とか。
死にたい夜は、そういうまっとうな自分の思考回路を完全に無視できる時間なのだと思う。さっき、僕は孤独を「暖かい」と表現したけれど、言い換えれば、孤独は「誰の目も届かない究極の自由」でもある。
普段、僕らは誰かの目だったり、常識だったり、そういうものに左右されて生きている。そんななかで、死にたい夜はたった一人で過ごす稀有な時間でもあるから、狂いきった自分を表現するのにうってつけの時間だ。
世界を丸ごと燃やし尽くしてしまうような、つまらない日々に風穴を開けてしまうような、そんな企みをするのにも最適で、あなたがあなたの狂気を解放しても誰にも文句を言われない時間なのだと思う。
- 何をしてもいい。そう言われると困ってしまうかもしれない。そんなときは、ぜひ「ケーキを焼く」ことから始めてみてはどうだろうか。
有難う。
とりあえず今夜は生き延びれた。
いつまで耐えれるか分からんけど。