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「親には感謝すべき」を肯定できない│過保護や過干渉の親を持つ私たちのモヤモヤ-

「育ててくれた親には感謝すべき」

このような意見が時々SNS上で話題に上がる。

私はこの意見に対し「間違いだ!」とは思わないが、手放しに「その通り!」とも思えず、モヤモヤする。

恐らくそれは、私の親が過干渉ぎみだったからだ

私と同じように親が過保護や過干渉だった人にとって、親の育て方を肯定し感謝しなくてはいけないというのは、苦痛すら感じてしまうはず。 

 

確かに、過干渉に育てられた私は、失敗する前に親が先回りして助けてくれるおかげで、傷つかずに済んできたのかもしれない。親が決めた厳しいルールのおかげで、あらゆるトラブルに巻き込まれずに済んだのかもしれない。

 

そんな「子供のためを思って」何でもやってくれた親に対し、「感謝すべき」と思えないのはなぜなのか。私自身の経験を振り返りながら考えたい。

 

学びの機会を奪われたから? 

先ほど言及したように、過保護や過干渉に育てられた子供は「様々なルールに守られていたおかげでトラブルに巻き込まれずに済んでいた」と言える。

 

例えば私は、学生時代「SNS禁止」だった。このルールのおかげで、私はインターネット上のトラブルに巻き込まれなかった。

 

しかし、SNSが使えるようになった時、ネット上の流行り言葉や、知らない人とのつながりの作り方、趣味のコミュニティの探し方などが分からず困惑した。

 

周囲が当たり前にできていることに付いていけないという事実は私の探索意欲をさらに削ぎ、今思えば「情報弱者」になっていった気がする。

 

これはSNSに限らずだが、「危険だから禁止」という事なかれ主義的な過保護/過干渉は、嫌な言い方をすれば親の「思考停止」だ。

 

今でも私はパソコンが苦手で、分からないプロセスにぶつかると発狂する。この発狂の正体は、「学生時代にみんなと足並み揃えてSNSを使えていれば、苦手意識を持つこともなく素直に学ぶ気持ちが芽生えていたのに」という怒りだと認識している。

 

こういった話をすると、「人のせいにしても何も変わらない」と言われる。しかし、親の思考停止により学ぶ機会を奪われ、他の同級生が経験してきたことが経験できず、結果的に苦しい思いをしていることは、紛れもない事実だ。

 

危険そうなものを片っ端から禁止にするのではなく、「こういう危険があるから気を付けて使ってね」「危なそうなことがあれば相談してね」というような指示をしてくれたら良かったのに、と感じている。

 

今では友人のネットの使い方を真似して「すぐに調べる」「とりあえずフォロ-してみる」などと行動に移したことにより、『情報弱者』としての遅れも取り戻しつつある。しかし、やはり「もっと早く学べていればなぁ」と悔やむことが多いのが本音だ。

 

自信を削がれたから? 

過保護や過干渉の親は、子供にかける愛情が大きい分、子供への期待も大きいことが多いと思う。

 

例えば私が先生や友人に褒められたことが嬉しかった時、それを母に報告すると、しばしば「そんなの誰にでも言ってるよ」「調子に乗らないようにね」「じゃあ次はこれを頑張ってね」などと言われた。

 

恐らく「あなたはもっと出来る子なんだからそんなことで舞い上がるな」という意味だったのだろう。しかし、このように成功体験を丸ごと否定するような言葉を返されるたび、自分でも予想外なほど傷ついた。

 

「褒められた」という素晴らしい体験を、身近な存在である親に褒めてもらえるどころか、その喜びや爽快な達成感ごと否定される…。

 

こうして、「私のしたことは大したことないんだ」という無力感と母への苛立ちだけが私に残り、「私はもっと上を目指せる」という自信はむしろ削がれていった。

 

親の言葉によって、達成感や向上心が踏みにじられた経験が何度もあったからこそ、私はどうしても、手放しに「親のしてくれたことに感謝したい!」とは思えない。

 

親のエゴが見え隠れするから? 

そもそも、「あなたのためを思って言ったのに」という言葉に、私は親のエゴイズムを感じてしまう。

 

親が先回りして危険な道を塞ぎ、失敗しない道だけを用意することは、「面倒ごとを回避している」とも感じてしまうからだ。

 

親心を慮れば、子供が失敗すると分かっていて挑戦をさせるのは確かに非効率。子供が傷つくのは見たくないという気持ちも分かる。

 

しかし、だからと言って失敗をさせないということは、子供の「失敗する→傷つく→失敗しない方法を考える」という大事な成長プロセスを奪ってしまっている。

 

それどころか、「失敗する自分は認めてもらえないんだ」というマインドを子供に植え付け、困難に挑戦していける前向きな姿勢を奪っている場合もあるのではないだろうか。

 

私は、大人になってから、母に対して「こう言われたことが辛かった」「こうして欲しかった」ということをいくつか伝えた日があった。でも、返ってきた言葉は私にとって「保身的な言い訳」にしか聞こえなかった。

 

一つ挙げると、「私の友人を選別して欲しくなかったこと(Aちゃんと遊ばない方がいい、など)」を伝えた時。母はこう言った。「Aちゃんは約束が守れない子だから、あなたが傷つくと思って言ったの。」

 

…正直、そう言っておけば私が「愛されている」と喜ぶとでも思ったのか?と内心イラついた。本当は違うだろう、と。娘が傷ついたら自分も嫌な気持ちになるからだろうと。あるいは単純に約束が守れない人間が気に入らないだけだろうと。

 

私は、約束を守れない友人を、許せる人間のままで居たかった。

 

しかし身近な「親」からの言葉の魔力は大きいもので、私の頭には「約束を破る人間は関わらない方がいい」とインプットされてしまった。

 

結局いまでも私は、友人にたった1度の約束を破られるだけでも、「その人とは関わらない方がいい」という母の言葉が脳裏をかすめる。そのたびに、友人を無垢に許してあげられない自分を、そして母を責めてしまい、苦しむことがある。

 

 「愛する子供のために」という献身的な愛情を否定するつもりは一切ない。しかし、少し行き過ぎてしまった愛情によって、子供が「成長を奪われた」「嫌な思いをした」と訴えた時、「あなたのためを思って言ったのに」という言葉を盾にするのは卑怯だ。

 

母に過去の不満をぶつけたあの日、本当は母に感謝が出来る自分になりたくて、母を傷つける覚悟で気持ちを伝えた。そこで返ってきたのが言い訳のような言葉ばかりで、「私は結局、母に感謝したいという気持ちにはなれないんだ」と悲しくなった。

 

大切なのは、「感謝できるか否か」ではない 

「親に感謝すべき」という意見は、確かに社会的に望ましい考え方かもしれない。しかし、例えそう思えなくても、自分を否定する必要はないと思う。

 

「感謝できない」という考えも、心に咲く大事な感情だから。

いずれ感謝できるようになるかも」、と思って気楽に構えてもいいし、「親は反面教師」として割り切って前を向いてしまうのも全然ありだと思う。

 

私も先ほど述べたように「やっぱり感謝できないなぁ」と思いつつも、「でも こういうところは有難かった」「母のああいうところは学びたい」という点は見つけられるようになった。いつまでも許せない心を持ち続けるのも、私は苦しいから。

 

大切なのは「社会的に望ましい考え方に合致すること」ではなく、感謝できない自分を受け入れ、後ろ向きになっている自分を少しずつでも前に向けることだと、私は思う。

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