自分は自分という存在である

こんにちは。cotonohaです。
今回は、誰かが訴える自由で生きづらくなると声を上げてくださったS-kzkさん。
セクシャリティーやジェンダーなどについて
経験を踏まえてお伝えしていきます。

『誰かが訴える自由で生きづらくなる』
私は世でいうセクシャルマイノリティという分類になるかと思います。(これもあまり好きではないのですが…)

 

体は女性、性自認は中性でバイ・セクシャル
これを言うと普通の人は
「普通の人より倍好きになれるんだね!」
「すごい!羨ましい!」
などと言われたりだとか
「男なの?女なの?」
女の子っぽい服、スカートを着れば母親から
「ちゃんとした格好」と言われてその度に息苦しさを感じています。

 

さて、最初の『誰かが訴える自由で生きづらくなる』というのは、最近のセクシャルマイノリティの方々の訴えやフェミニストの方々の訴えです。
セクシャルマイノリティについては、多くの方が知ってもらうという範疇を超えて理解してわかってあげて、寄り添ってあげないと悪。という風習がやはりあります。

 

そして表立って活動するセクシャルマイノリティの方々の多さにより、私のようなトランスジェンダーでもない、同性愛者でもない私は”仲間ではない”
“ファッションセクマイだ”
と言われたりもしますし、実際身の置き場の無さを感じます。

 

性別に関して1番自由でありたかったのはセクマイの方々と思っていたので少し動揺もしています。表に出てくる方が正しい形でそうでないセクマイはどこに行けばいいのか…

 

私はただ、そういう人がいるってわかってもらうだけでいい。
差別とかではなく受け入れられない人はいて当たり前で、それはセクマイ以外の事でも一緒なのに…
と思うのです。

 

フェミニストの方々の訴えも私は共感ができません。
私は風俗嬢です。
18の頃から5年ほど働いています。
いろんな人に出会って確かに酷い男の人はいる。でも、私が人間関係で1番信用ができなくなる事が多かったのはやはり女性でそう考えると今のフェミニストの方々の訴えを見る度に若干の気持ち悪さを感じることもあるのです。

 

おそらく、こんなことをどんどん言っておけば異端扱いやフェミニストでいうところの名誉男性?と言われたり叩かれてしまうんでしょうね。

 

性別関係ない。
人間、男も女もそうでない子もいい人はいい人、クソはクソ。
あなたらが訴える自由で身の置き場がどんどん無くなっていく人間はどうすればいい?
私がおかしいのか、周りが異常なまでの寛容に見えて寛容さを殺しているのか。

 

これが私の悩みです。
長文失礼しました。

A.他人の枠に無理に当てはまらなくていい

お返事が遅くなってしまい、申し訳ありません。
cotonohaの担当者です。相談してくださり、ありがとうございました。

「誰かが訴える自由で生きづらくなる」と考えていらっしゃるとのこと、拝読致しました。
Sーkzkさんの仰る通りだと思います。誰かが訴える自由で解放される人もいれば、逆に苦しい立場に立たされる人もいるのだと考えます。

これは、僕の個人的な話です。
僕はトランスジェンダーのFtM(女性から男性)としてインターネット上で活動していた時期がありました。当時のFtMは「女子校出身」「女性が好き」「運動が得意」といった型にはまったFtMが主流で、「共学出身」「男性が好き」「運動が苦手」な僕はFtMとして扱われないような時代でした。そこに僕の居場所はありませんでした。自分は何者なのか必死に探して見つけた答えに当てはまらなかったとき、誰かに違うと言われたときのショックの大きさを、今でも覚えています。

Sーkzkさんはもしかすると、当時の僕のような感情を抱いているのかもしれません。
セクシャルマイノリティの活動が大きくなってきて、色んな権利を訴えることが出来始めた反面、居場所をなくす人がいるのも事実です。ただ、僕が思うのは、「他人から作られた枠にはまる必要はない」ということです。

肩身の狭い思いをしてきましたが、今ではそのような色んなFtMもいるということが受け入れられ始めています。ここで大切にしたいのは「自分が訴え続けたことによってその枠が出来た」のではなく「他人がどう訴えようと自分は自分のままでい続けた」ことなのです。僕はおおっぴろげに声を上げてきたわけではありませんし、今のように色んなFtMに寛容な時代を作り上げてきたわけではありません。気づけば勝手にそのような時代になっていただけです。それでも何となく今の僕が僕であり続けられたのは、僕が当時の「FtM」として存在したかったわけではなく、「僕」として存在したかったからです。

周りに言われることは気になると思います。僕も気にしてしまいがちな人間の1人です。
それでも、他人がSーkzkさんの人生を生きるわけではないのです。 ただ、Sーkzkさんが生きていくのです。他人の枠に無理に当てはまらなくていいのです。 Sーkzkさんという生き方を、見つめていくと、自ずと何かが見えてくるのではないでしょうか。

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