やはり、仕掛けられた奇跡ばかりがあふれる世の中に、俺の生息地はなかったらしい。

ときどき、何も手につかなくなる。人生には満足していて、何も不自由なんてないのに、なぜ生きているのか分からなくなって、いま熱意を持って取り組んでいることがバカバカしくなるときがある。

そんなとき、俺は自分について、改めて振り返ってみるようにしている。いま、信じて疑わない自分のことを、徹底的に疑ってみる。場合によっては自分を否定するわけだから、強い痛みを伴う思考だけれど、やってみるとこれがまた面白い。

例えば、俺は昨日、「自分の思考が間違っているはずがない」という厳格で傲慢な思考を持つ自分に気づいた。なんとなく危険な気がして、その思考を分析してみることにした。なぜ、そこまで自分の思考に自信を持とうとしているのか、考えてみた。

ざっくり言えば、俺のなかに巣食う「恐怖」が、その思考を生み出しているようだった。俺が生来抱えている「恐怖」について、少しのあいだ語らせてほしい。

俺はもともと、生きていくことが億劫で、くだらなくて、なんなら「生きていたくない」と考えている。”生きる理由”よりも”生きたくない理由”のほうが多く思いつくくらいには、生きることに後ろ向きな人間である。でも、期待を持って生きていきたいし、幸せになりたい。だから、俺は俺が「美しい」「生きるに値する」と思える景色を見るために、そのためだけに生きようと思っている。

この時点でお察しだが、俺は給与をもらって労働し、週末のビールで全てを流し込めるような人間ではないから、いわゆる一般的な幸福論は、俺にはいっさい当てはまらない。「生きること」「生き続けること」を前提としたこの世界とは、徹底的にウマが合わないのだ。

だから、どうしたって極限的な生き方になる。周りからは白い目で見られるかもしれないし、畏怖や尊敬の目で見られるかもしれない。いずれにせよ、「仲間」として見てもらうことはできないだろうと思う。

そんな哲学を持っている俺だから、「生きるに値する」ものを探すのに必死だ。なかなか見つからないが、ときどき、俺を満たしてくれそうなものに出会える。必死に守って、愛したいと思えるような、”景色”、”人間”、”環境”、”結果”の匂いを嗅ぎ取るときがある。

そんなとき、俺は無我夢中でそれに向かっていく。空腹のオオカミが餌に飛びつくように、脇目も振らず突っ込んでしまう。それはいい。問題は、その後だ。

俺は、自分を夢中にさせるような”景色”、”人間”、”環境”、”結果”に出会うと、始めのうちは興奮する。そのうちそれを味わって、そのあと、それを「一生守ろう」と考える。刹那の輝きに惹かれたはずなのに、それをどうにかして一生続かせようと考えてしまうのだ。その結果、その輝きがくすんだり、失われてしまったとしても、気づかずに抱きしめ続けてしまうのだ。

そうして、いつかその輝きが失われていることに気がつくと、冒頭で言ったように「何も手につかなくなる」のだ。混乱し、ただただ落胆し、苦しくなり、希望が見えなくなる。気づかぬうちに精神が摩耗し、力が抜けていくのだ。恐れていたことが現実になったとき、すべてが色あせて見えてしまう。生きる理由がひとつ失われてしまうわけだから、その時に俺が感じる恐怖は筆舌に尽くしがたい。

しかし、考えてみれば当たり前だった。俺は、前提として「生きる理由がなければ生きられない」人間だ。そしてその「生きる理由」は、一般的な幸福論では絶対に満たせない類のものだった。俺の中にある、俺だけの感覚に従って幸せの在り処を嗅ぎ分けなければ、手に入らないものなのだ。

藪に分け入って、傷だらけになりながらたどり着いた先に現れた幸せが、たとえ刹那的な輝きだったとしても、俺はそれを手に入れ続けなければ、生きていけないのだ。

だから、その輝きを「一生続かせよう」などと考えてはいけない。もちろん、刹那の輝きであるはずの奇跡が一生続いたのなら、それこそ奇跡だ。本当に、心から、嬉しいことだと思う。だけど、それはあくまでオマケに過ぎない。世界の歯車が全て噛み合ったときにのみ生じる、天文学的な奇跡のようなものだ。

俺は、その奇跡を願いながら、また、奇跡が起こらないことを知りながら、今この瞬間に俺を満たしてくれる輝きに集中しなければ、生きていけないのだ。言葉で言うのは簡単だが、かなり大変なことだと思う。常に酸欠で、飢餓状態にいるようなものだ。

いつの日か、こんな生き方をやめる日が来るのかもしれない。一般的な幸福論で自分を満たそうと努力し、安定した人生を送ろうと鞍替えするのかもしれない。でも、きっとそうなったら俺は俺を本当に嫌いになって、死んでしまうような気がする。仮に生き続けていたとしても、もう今の俺は死んでしまっているのだから、肉体の安否に意味はない。

どのみち、俺は生きることに向いていない。

だったら、足掻いてみたい。起こらない奇跡を願い続けて、奇跡が叶わないたびに胸を切り裂かれて、それでもなお願って、足掻いていたい。

いつの日か、俺自身が俺を満たす輝きになれる、そんな大それた奇跡を起こすために。

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