自覚したハンデとの付き合い方

ハンデは、誰にだってあるものだと思う。
それが自分にとって大きいか小さいかは個人差があったとしても、
コンプレックスを隠す気持ちや、ジレンマを抱える気持ちは、
誰にだって評価出来ないものだと思う。

「障害を免罪符にしてはいけない」。

僕が社会という世界で生きるとき、必ず心に留めていることだ。
誰もが持ち得るハンデを、僕は言い訳にしたくはなかった。

もちろん、ハンデを持っているからこそ、ぶつかる障壁はあるし、
どうしても越えられないハードルは存在する。
それらに対して正攻法で戦えという意味ではない。

ただ、立ち向かう努力はするべきだと、僕は思うのだ。

「障害だから」と社会に胡座をかき、「病気だから」と社会に言い訳を述べる、
僕はそんな人間にはなりたくない。
だからといって、他人がどういう生き方をしようと、僕は構わない。
相手の人生は相手にしか責任がとれないものであり、僕の人生は僕にしか責任がとれないものだから。

僕は、模索する。
社会で生きるにあたって、僕にはどんなハンデがあって、乗り越えるべき条件は何なのか。
福祉サービスを使ってもいい、専門機関に頼ってもいい。
決して1人では生きていけない社会で、僕はたくさんの人に頼りながら、生き続けるしかないのだろう。
それが、僕のハンデに対する向き合い方だ。

cotonohaにはたくさんの相談が来ていて、
その誰もが自分のハンデに苦しんでいる様子を見て、僕は思う。
悩むことが、ハンデに向き合う第一歩なのだと。
どんな条件があろうと、自分らしく生きる権利は誰もに保障されている。
何に迷い、何に恐れ、何に困っているのか。
ハンデが目の前に現れたとき、どうするべきなのか。

それは苦しい道のりだろう。
いつだって何らかの理由を付けて逃げる方が簡単だ。
どんな選択肢をチョイスしようと、cotonohaは相談に来た人に、
悩みに対して具体的な解決方法を提示し、道を照らすことしか出来ないのだ。

絶望したくなるかもしれない。拒絶したくなるかもしれない。
それでも、僕は前を向かなければいけないと思う。
過去を生きてきた僕のためにも、未来を生きている僕のためにも。

だから、貴方が今抱えるハンデは何であっても、
決して目を逸らさないなければ、きっと道はどこかにあると思うのだ。
ハンデを克服することも、ハンデと共存することも、どんな付き合い方だっていい。
諦め、後ろを向き、逃げ、楽な道を選ぶことは、甘い蜜のように見える。
それでも、僕は、貴方に前を向いてほしいと、それがエゴだと自覚しながら、願っている。

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