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あなたの「審査員席」に座っているのは誰?

死にたくなる日は、いつも音もなくやってくる。「生きたい」よりも、「生きなきゃいけない」が強くなると消えたくなる。でも、誰かがくれた、たったひと言で自分の見方が変わって、心が呼吸できるようになる日だってある。

誰かと会うと疲れてしまう道化の私

誰かと会った後、帰宅して玄関を開けた瞬間に「疲れた」という言葉しかこぼせない自分に疲れ切っていた。楽しむためだった時間は振り返ってみれば、いつも道化を演じていた時間。友達、恋人、家族の誰といても窮屈だ。

私の一挙一動を相手はどう思うだろう。頭の中には、いつもそんな問いがあって、人と向き合っている時は言葉と思考が噛み合わない。

道で誰かとすれ違ったり、電車に乗ったりする時は「この人からどう見えてるか」が常に頭の中心にある。だから、イヤホンをつけ、スマホに目を落としていないと耐えられない。誰かと目が合うと、「ブスだな」「気持ち悪いな」「変な格好してんな」と言われているような気がして、近所でさえも完璧にメイクをしないと出かけられない。

ひとりでいても心が休まらない。例えば、ご飯を食べる時。どんな顔をして食べてるんだろうか、気持ち悪くはないだろうか。そう思って鏡の前で自分の食べ方を見ることもある。

周囲に誰もいないのに、「もし○○さんがそばに居たら、こんな行動をどう思うだろう」と考え続けるのが日常。生き方が分からない。何が正解で、何が不正解なのかを自分に下せなくなり、他人にも正解であるべき行動を求めてしまって、イライラした。

柔軟でありたいのに、押し付けがましい自分。どうやって変えたらいいのか、どこを変えたらいいのか分からない。

私の「審査員席」に座ってるのは誰?

そんな日々を続けていたら、無性に死にたくなった。一晩中、愛猫の傍でぼーっとしながら「消えたい」「死にたい」と繰り返し、泣いた。

これではダメだ。心が壊れる。自信をもっとつけなければ。そう思い、仕事に打ち込んで「成果」という、目に見えやすい矛を持とうとしたけれど、根性論には限界が来る。心が余計に死ぬ。120%の力を常に出し続けないと納得できない自分の弱さに、また疲れるから。

頑張らないことを、頑張りたい。でも、それは一体どうやって頑張ったらいいんだろう。何度も何度も、その問いが心と頭を締め付けて苦しい。息が上手くできない。結局、消えたい。一刻も早く、死にたい。

そんな時だった。「古川さんの審査員席には誰が座ってるの?」という質問を投げかけてもらったのは。

この問いは、当メディアを運営しているBRメンバーがくれたものだ。私の審査員席に座っている人か…。想像して思い浮かんだのは、周囲にいる全ての人だった。

すれ違った人や友達、家族、恋人など自分が関わっている全ての人から私は評価されている。そう思っていることに、その時、初めて気づいた。

ただ、楽しくてそばに居る。話したいから会う。そんな感覚が理屈では分かるのに、自分の中にはなかった。私にとって他者のことは「私を評価する存在」でしかなかった。それは、自分だけでは決して知れなかった事実だった。

私といるなら、楽しませないと。
なにか利益をもたらさないと。
相手が求める私でいないと。
相手の理想像のままでいないと。

そう思って、何人の自分を殺してきたんだろうか。

自然体なんて、意味がわからなかった。ありのままなんて、見せられる訳がなかった。恐ろしくて。

どんな評価を目の前の相手が下してくるのか、常に先回りしてリスクを回避しようとしないと安心して生きられない。誰といても、たとえひとりでいても、私を評価する誰かの視線が私には付きまとう。

そんな、心の奥に沈めてきた本音に気づいたら、もうひとつ気づけたことがあった。誰も私を評価なんてしてないのではないかと。当たり前でシンプルすぎるその事実は私の中では大きな発見だった。初めて「心が休まる」という感覚が分かった。私が生きてると思った。

人は私を評価してない。この言葉は、お守りになった。誰かと対峙する時、この言葉を頭の中で思い浮かべて、自分に言い聞かせると会話をするのが楽になる。

相手の口から出る言葉は「評価」ではなく「想い」にすぎない。そう思ったら、自分の意見が少し言いやすい。自分の周りに漂っていた張り詰めていた空気感が徐々に緩んでいく感じした。

私は人が嫌いだった。人は自分に評価を下す存在だったから。何かを言われる度、ダメの烙印を押されてるような気がしたから。でも、もしかしたら、ダメではなかったのかもしれない。どの時の私も。それはあなたにも通ずることかもしれない。

あなたの「審査員席」に座っているのは誰なのだろうか。

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