「障害者らしくない障害者」として生きること

昔から、私が身体障害者だということには自分自身よりも周囲のほうが敏感で、その度に生き方に迷った。

「障害者」というレッテルはいつでも自分に付きまとっていて、しっかりしなければと思う理由にもなった。例えば、学校での内科検診の時。飲んでいる薬の名前を言えなかった小学校低学年の私に医師が半笑いで言った言葉は、今でも心に残っている。「そういうことは覚えてないとあかんよ。自分のことなんだから。」他の子なら、絶対に叱られないことで叱られなければならないことが悲しかった。障害がある分、他の人よりもしっかりしなければ…と思うようにもなった。

それから歳を重ね、少しずつ大人になっていく中で気づいたのは、周囲の私を見る目が差別的であること。病院で知らないおばさんと仲良くなった時、「お嬢ちゃんはどこか怪我したの?」と聞かれ、心臓が生まれつき悪いと答えた瞬間、その人は哀れみの目を浮かべた。

自分が「可哀想な子」に見えることにショックを受けた。自分ではそう思っていなくても、私はいつでも可哀想な子なのだろうか。そう考え続けて、気づいた。もしかしたら可哀想な子のポジションにい続けてほしいのかもしれない。「あんな子もいるから、頑張ろう」と自身を奮い立たせるために。土台のようだなと思った。

普通の幸せも、障害者であれば周囲には「特別な幸せ」に写るようだった。高校時代、好きなギャルメイクを楽しんでいると、体育教師から「水商売みたいな化粧して。親の顔が見てみたいわ」と言われた。

体育に参加しない私に対して常日頃から、「本当に運動ができないのか分からない」と言い放った体育教師にとっては障害者が「普通に着飾ること」や「好きなメイクを楽しむ」が癇に障ったのだろう。

結婚が決まった時も私は障害者というフィルターを通して、祝福された。「あんな風に障害を持ってても結婚できるんだね」と言った親戚もいたし、「あの子は苦労しただろうから」といって大金を包んでくれる人もいた。そのどちらも私は何か違うと思った。もっと、普通に軽い祝福でよかった。

「私は先天性心疾患です。」…普通にそう誰かに伝えられるまでにどれくらいの時間がかかって、どんな涙を流してきたのかなんて誰も知らない。そんな根っこの部分は無視したまま、周りは私の障害を見る。私がその言葉を泣かずに言えるようになったのは、20歳を超えてからだったし、V字ネックを着ると見える大きな手術痕を気にしなくなったのも20代になってからだ。

そんな日々を知らずに「可哀想」「苦労した」という言葉で私の人生を推しはからないでほしかった。「障害者」というフィルターだけで私のことを語らないでほしかった。私は障害者である前に、「古川諭香」というひとりの人間だ。

障害者らしく生きる。…私たち障害者は、そんな見えない圧を受けているような気がする。「可哀想」でいなければならない圧があるような気がする。だからこそ、私は思う。とことん障害者らしくない人生を謳歌してやろうと。ひとりの人間として私を見てもらった上で、障害をひとつの特性として知ってもらえたらいいなと思う。過剰な気遣いも特別扱いも受けない自分で生きていきたい。

日常生活を普通に送る一方で、定期健診に行った後は必ず、あと何年自由に日常生活をこなせるかと考える私は今、障害者と健常者の狭間で生きているのかもしれない。この期間が何年続くかは、分からない。でもいつの日か、世間一般が想像するような障害者になったとしても最期の時まで自分らしさは持ち続けていたい。可哀想ではない自分でいたい

誰かが思い描く幸せの基準なんて、どうでもいい。自分の幸せくらい、自分のものさしで決めたいし、決められるものだと思っている。障害の裏に、自分が隠れないように生きる。押し付けられた可哀想で、本当に自分が可哀想になってしまわないように。

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