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学校に行けないあなたへ伝えたい4つのこと

生まれてこのかた、俺はまともに学校に通った記憶がない。世間一般の定義に当てはめると、俺は不登校だったのだと思う。

そして、学校も親も「俺が学校へ行くこと」をゴールに置いて話していたから、周りに自分の悩みを相談できる相手なんていなかったし、相談したところで言葉巧みに登校を促されるばかりだったから、次第に「大人」という生き物が嫌いになっていった。中学生の頃の話だ。

俺は、元不登校の「大人」として、いま学校へ行けないことに苦しんでいるあなたへ伝えなければならないことがある気がした。勝手にシンパシーを感じているあなたに、俺から、4つの言葉を贈りたい。たった4つだけだから、ぜひ読んで、かみ砕いてみてほしい。

理解されることを諦めないでほしい

学校へ行けなくなってから最初に感じたのは「孤独」だった。部屋に一人で引きこもっていたから、というわけではない。物理的な孤独ではなく、精神的な孤独に俺はこころを蝕まれた。人は物理的な孤独を避けようと躍起になるけれど、本当に人を苦しめたり、殺したりするのは、精神的な孤独なのではないかと思う。

友人や家族に恵まれていたって、真の理解者足りうる人物が一人もいないのでは、お話にならない。だというのに、俺たちは物理的なつながり(土日に遊ぶ相手がいるか、昼食を共にする友人がいるか、など)を最重要視している。本当に孤独な思いをした人からすれば、孤独を恐れるがあまりに毒にも薬にもならない関係性を求め続ける人の姿はなんとも滑稽に違いない。

俺は不登校になって、初めて本物の孤独を知った。学校へ行っていない期間も、俺は友人や家族と会話をしていた。彼ら彼女らは、俺と会話をするくせに「理解しよう」とはしてくれなかった。「どうして学校へ行かないの?」と形ばかりの質問は投げられるけれど、正直に答えれば「その程度の理由で?」だとか、「ほかのみんなは通っているのに?」だとか、見当はずれな返答が投げ返される。

そのころ、俺は「人は理解したいものを理解する」のだと理解した。もっと言えば、自分が理解したいようにものごとを捻じ曲げて理解するケースが非常に多い。そうした人は基本的に自分のことしか見えていない。自分のことしか見えていない人は、自分の意に沿わない人間や思考、行動に対して、受容や理解を示さない。そんなことをしてしまえば、自分を否定することにつながってしまうのだろう。砂上の楼閣のような自己を守るために、彼ら彼女らは誰かを理解したり、受容したり、愛をもって接したりといった行動が「できない」のだ。

そんな人々に、不登校という特殊な行動を選択した人間はどう映るのか。異端であり、行きたくもない学校へ行っている同級生からすれば羨ましい限りだろう。不登校のあなたがどれだけ思い悩んでいようと、深刻な事情があろうと、関係はない。自分のことにいっぱいいっぱいな人にとって不登校は甘えであり、責められるべき違反行為でなければならないのだ。そして、そんな行動を選択したあなたは、甘えたがりで、責められて当然の人間であると断ずるほかないのだ。そうでなければ、彼ら彼女らの自我は足元から瓦解してしまうのだから。

だから、だからこそ。そんな理由であなたの叫びを理解しない人間を。あなたの気持ちや尊厳を受容できない人間を。あなたが理解してあげる必要なんてどこにもないと伝えたい。

彼ら彼女らが声高に叫ぶ「普通は」「みんなが」「そんなんじゃ将来が」といった戯言は、あなたに向けて放たれているのではない。単なる自分への八つ当たりで、あてこすりだ。あなたの気持ちを理解しようとしない同級生や家族は、あなたのことではなく、自分のことを考えているからそんな言葉が吐けるのだ。

だけど、絶望して終わらないでほしい。本来であればあなたを理解できる友人や家族であっても、「不登校」というインパクトの前ではキャパオーバーになってしまうこともある。「誰も私を理解してくれない」と悲観的になりすぎないで、「理解したくてもできないほどにみんな悩んでいるのだろう」といった程度の認識でいられたら、きっと楽になるはずだ。

いつか、あなたの悩みや苦しみを「甘えだ」とか「それくらいみんなも」といったように切り捨てるのではなく、「大変だったね」「辛かったね」と必要以上に同情してくるのでもなく、「ここまで生きてきてくれてありがとう」と、受け止めて、いっしょに前を向いて生きてくれる人が見つかるはずだから、それまで、大切なあなたの気持ちを、守っていこう。誰にも理解されなくたっていいから、苦しくても、守っていこう。

諦めることは「明らむ」ことだ

現代において「諦める」ことはネガティブなイメージでとらえられがち。確かに、一つのものごとを続ければその先に見える景色があったり、それが自信になったりというメリットはあるけれど、辞めることにだってメリットはある。

「諦める」の語源は「明らむ」という古語であり、「明らむ」はポジティブな言葉だったという。物事の道理を理解して、不要なものを切り捨てることを指していた。どうしても無視されがちな「諦める」メリットを、もう一度ちゃんと理解してほしい。

もしあなたが、どうしても学校に行けない理由があるとして、それでも学校を続けて、得られるものはなんなのだろう。苦しい思いを我慢して、達成できることはあるのだろうか。「普通」の先に、あなたの欲しい未来はあるのだろうか。

もしかしたら、その努力や我慢はあなたにとって不要なものなのかもしれない。早々に諦めて、本当に必要なものだけを集めていったほうが、あなたは幸せになれるのかもしれない。画面の向こうで苦しみの渦中にいるあなたを想像すると、俺は、そんなことを思わずにはいられない。

継続至上主義のこの社会に染まってしまうと、いつの日にか、自分の中の大切なものが零れ落ちていってしまうことがある。「気づいたときにはもう昔の自分じゃなくなっている」なんて、すでに珍しい話じゃなくなった。そんな世界だからこそ、不登校という分かりやすいサインを見逃さずに、あなたは何が欲しくて、何が不要なのか、あなただけの哲学を創り上げていってほしいと願う。

諦めることから始まる物語が、無数にあるはずだ。その物語はあなたを、あなたがこれから出会う誰かを、駆り立てて、一心不乱に走らせて、ワクワクさせてしまうのだろう。俺はそんなあなたにいつの日か出会いたいと思って、こんな記事を書いている。

「普通」なんかにあなたらしさが奪われていいはずがないということ

とかく「普通であること」が求められがちな社会になってしまったと思う。能力的には非凡を求められるのに、精神や思想は普通でなければならないという息苦しさが今の日本に惨いほど漂っていて、普通に染まれなかった人々が呼吸できなくなる日の接近を感じさせる。

実体のない「普通」をよりどころにして生きていると、次第に自分が死んでいき、自分が死んだあとには「自分は普通である」というプライドだけが残り、普通でない人を糾弾することが生きがいになっていく。そうした人々が、普通を選ばなかった人や、普通でいられなかった人の首を絞めんとゾンビの如く群がっている構図をよく目にする。

ゾンビと化した彼ら彼女らは、「自分らしく生きる人」をむさぼり尽くしては次の獲物へ向かっていく。人が人である理由であり、人の魂ともいえる「自分らしさ」を奪い取って、地へ投げ捨て、踏みにじって、無限に進み続ける。魂を奪われた被害者も群れに引き入れて、他者が持つ「自分らしさ」という生き血を求めて、どこまでも、どこまでも、ゾンビの大群は行軍をやめない。

例えば、「不登校になった」という分かりやすい特異性は、ゾンビではなかったはずの友人や家族をゾンビに変えてしまうかもしれない。昨日まで普通だったはずのあなたが、突然普通でない行動を起こしたのだから、ゾンビになりかけている周囲の人々からは奇異の目を向けられたり、糾弾されたりするかもしれない。

もしかしたら不登校を続けている間かもしれないし、卒業した後かもしれないけれど、あなたがあなたらしく生きていると、いつか、あなたはゾンビの大群と遭遇することになるだろう。もしかしたら、すでにゾンビに立ち向かっている最中かもしれない。そんなあなたに、俺は、一人じゃないよと伝えたい。

荒野に一人で立ち尽くして、周囲を埋め尽くすゾンビの群れしか視界に入らない状況では、人は正気を保てない。だから、か細く震えるその手を握ることはできないけれど、遠く遠くどこかの街から、あなたに言葉を贈りたい。

一人じゃない。あなたらしさは奪われない。あなたがあなたである理由を捨てないでほしい。弱さも強さもひっくるめて、あなたがあなたのまま生きていることが、あなたの生きた証であり、何よりあなたが生まれてきた理由なのだと伝えたい。

いつの日かで合えたその日には、持ってきた恥ずかしい話も武勇伝もごちゃ混ぜにして、朝まで語り明かそう。その日を夢見て、俺は、あなたは、この荒野を生き抜こう。一人じゃない。

不安や恐怖を照らすのは「勇気」と「知識」だった

不登校という状況は、否応なく未来への不安や恐怖を駆り立てる。なんとなくこのままじゃダメなことだけが分かっていて、自分だけが立ち止まっているような気持ちになる。だからついつい、ゾンビたちの言葉に耳を傾けてしまったり、今の自分を否定して未来の自分にすべての期待を預けてしまったりする。

しかし、それでは不安や恐怖はなくならない。学校へ通いなおせばある程度は回復するかもしれないけれど、それでも不安や恐怖は消え去らない。いまあなたが感じている不安や恐怖の本質は、不登校だから生じているものではなく、根本的にあなたが抱いている社会や未来に対しての不透明さによるものだからだ。不登校はその不安や恐怖を可視化させた要素に過ぎない。

むしろ、不登校になったおかげで周囲より早くその不安や恐怖に出会えたことを前向きに捉えてみてほしい。多くの人はその不安や恐怖に気づかないまま大人になり、向き合わないまま社会という海原へ漕ぎ出してしまう。だから、怖くて一歩を踏み出せない。自分らしく生きるリスクを許容できないまま、老いていく。彼ら彼女らが一歩を踏み出せなかったすべての理由は、今あなたが感じている漠然とした不安や恐怖に、彼ら彼女らが立ち向かわなかったことが原因だ。

だからこそ今感じているその不安や恐怖から目を背けず、何を恐れているのか明確にしなければならない。ひとつ例を出そう。

①不登校だから不安

②学校が卒業できないから不安

③卒業後に進学や就職できないから不安

④進学や就職ができれば不安じゃない

⑤高認を取って通信制大学へ進学する

ここまで不安を深堀っていくと、自分が何を求めているのかが明らかになる。すると、⑤のように、不登校のままでも成し遂げられる可能性が見えてくる。そこで初めて選択肢が生じるのだ。例になぞらえれば、従来のやり方どおりに学校へ通うのか、⑤のように別のルートで夢を叶えるのか、という選択肢が生まれている。あなたが悩むべき事柄は、その選択肢に対してのみであり、それ以外の体裁や罪悪感に対してではないのだ。

正しく恐怖に向き合うために必要なことが2つあると思っている。それは「恐怖と向き合う勇気」「選択肢を導き出すための知識」だ。

勇気は言わずもがな、恐怖を恐怖のままにしておかず、一つずつライトを照らして何を恐れているのか理解していくこと、その原動力となるものを指す。知識は、先ほどの例で出てきた「高認」や「通信制大学」といった使える制度・仕組みを知っているか否かに当てはまる。

普通の人のための情報はこれでもかと溢れかえっているくせに、普通でない選択をする人のための情報はなかなか手に入らないのが社会の現状だ。必要な情報を自分で手に入れられるように、教えてもらうことだけでなく自分で情報にたどり着くための教養も持ち合わせておくと、生きづらさが少しだけ和らぐし、普通でない道を歩んだとしても夢が叶いやすくなると思う。

往々にして恐怖に足がすくんでいる人は、勇気か知識のいずれか、または両方が不足していることが多い。不登校という状況にあれこれ頭を悩ませるのではなく、今持っている勇気や知識を活用して未来を切り開くために時間を使ってみてほしい

 

この記事で紹介した4つの言葉が、あなたの明日をほんの少しだけ照らす光になっていればいいと思う。

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