やっぱり僕らは頑張れない

 

学生でも大人でも、「頑張る」は美徳だと考えられている。
一生懸命に何かに取り組んでいる人が輝く、そんな空気に覆われている。
頑張っている人が、報われる世界。努力が美徳とされる世間。諦めない人が賞賛され、認められる社会。
綺麗で美しい、だけど時にそれは、残酷で惨い。

「頑張る」って何だろう

僕は、「頑張れない」人たちを見かけることがある。

そもそも、「頑張る」とは何だろうか。
世の中から「頑張っているね」「努力しているね」と評価される時、世の中は何を見ているのだろう。
汗水流してスポーツをする姿は「頑張っている」、夜遅くまで勉強をしている姿は「頑張っている」。
だけど、世の中は「当たり前に出来ること」を「当たり前にすること」を「頑張っている」と評価してはくれない。
それが例え本人にとって苦痛が感じながらしていることでも、世の中の評価はあまりにも冷たい。
悲しいことにいくら本人が「頑張っている」と思えど、世の中が評価をしてくれなければそれは「頑張っている」とは認められないのだ。

その境界線は、「お金になるかどうか」だ。

スポーツも勉強もゲームも動画も、お金になって働き始めたら、世の中は手のひらを返したように評価をしてくれる。
悲しいけれど、それが現実だ。もちろん、お金になるにはとてつもなく努力が必要だ。
「好きなことで、生きていく」とキャッチコピーが流行った時、きっとそれを夢に見た人たちも多いだろう。
だけどそれが出来るのはほんの一握り、限られた人間だけだ。だからこそ、世の中はその「頑張り」を評価する。
世の中は「自分には出来ないこと」をしている人間には、とても甘い。

頑張れない僕たちは生きづらい

僕は”放課後等デイサービス”という、知的障害や発達障害を持つ子どもたちの学童保育のような施設で働いている。
通所する子どもたちは本当に個性豊かで、好きなことや嫌いなこと、得意なところや苦手なところ、十人十色である。

そういう子どもたちの中で、一定数「頑張れない」子どもがいる。
いや「頑張れない」というのは言い方があまり適切ではないのかもしれない。
それは「怠けている」とか「サボっている」ように見える子どもがいる。大人からしてみれば何の変哲もないことかもしれないけれど、そういう子どもにとっては「頑張る」はとっても大きな力が必要で、いわゆる「エネルギーが足りていない状態」なのだと思う。

「頑張る」ことはとても大変だ。世の中で「頑張っている」と評価をされるくらいに、自分を削らなければならない。
何度も諦めずに立ち向かわなければならない。
「努力を努力を思わない人間」が一定数いるけれど、そういう人間は努力の矛先が「好きなもの」だからだ。
「努力は辛くて苦しいものかもしれないけれど、自分はそうは思わない」と言えるのは、きっと運が良いだけなのだ。
本当の努力は、辛くて苦しくてしんどくて、華やかさには欠ける。だとしても、世の中は「頑張る」を求めてくる。
あまりにも、理不尽な世界だと思うのだ。

世の中に子どもたちを送り出すのが、僕の仕事の1つだ。
「頑張れない」子どもたちに向き合い、努力をしてほしいと問いかける。だけどこれは、僕のエゴでしかない。
子どもたちが「頑張る」のも「頑張らない」のも、僕はその子どもたちの存在を受け入れている。
もちろん、大人として子どもたちに「頑張ってほしい」と思うけれど、僕の考え方を押し付けたいとは思わない。

子どもたちが通う学校では、特に「頑張ること」が美しいと評価される風潮が色濃く存在する。
そんな中で生きる子どもたちは、あまりにも窮屈に思えてしまう。勉強や部活を「頑張る」子どもが高く評価され、「頑張れない」子どもは低く評価される。
僕が働く施設に通所する子どもたちは、何らかの障害を抱えていて、定型発達の子どもたちのように「頑張る」ことが難しい。生きづらい学校で、懸命に戦ってはいるけれど、どうしても厳しい現実がある。子どもたちは外見からは見えづらい障害であるからこそ、余計に世の中からの勘違いもされやすい。

頑張れない自分を受け入れる

これは子どもたちだけの話ではない。大人だってそうだ。「頑張れない」人は評価が下がる。
それは厳しいけれど、紛れもない現実なのだ。

「頑張れない」が良いわけではない。
「頑張る」にはエネルギーが必要で、そのエネルギーを持っていないからこそ、立ち上がれない人がいる。
僕は、そういう人を擁護したいわけではない。僕が言いたいのは、「頑張れない」自分を受け入れてほしいということだ。「僕は頑張れないから」とか「私は出来ないから」とか、そういうことを思ってほしいのではない。
「頑張れない」自分を見つめ、世の中の冷たい評価を受けてもなお、前を向いてほしいと思う。「頑張る」エネルギーは、とても大切だ。それは家族や友人や先生や上司の励ましかもしれないし、趣味や好きなことの存在かもしれない。「もしかしたら、このために頑張れるかもしれない」という、エネルギーのきっかけになる何かを探してほしい。

もしもそこで諦めたなら、僕はそれは仕方のないことだと思う。だけど、そこで「頑張れない」ことに胡座をかけるものではない。「頑張れない」自分を受け入れて、「頑張る」自分を見捨てた、その現実に見つめるべきだ。

それでも頑張りたいと思ってほしい

「頑張れない」と思っても、「頑張りたい」と思えたら、見える世界は変わると思う。「頑張りたい」と思う気持ちが芽生えたら、「頑張る」エネルギーが水分となり、やがて「頑張る」と花になると信じている。辛くても苦しくても、「頑張れない」と思っても、「頑張りたい」と思うことは止めないでほしい。

「頑張りたい」と、僕は貴方に思ってほしい。

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