恋愛は相手と自分を同時に対等に愛することだった

私が恋愛だと思っていたものは、もしかすると、ただの依存だったのかもしれない。

一人の相手と終末を迎えると、いつもそんなふうに悲しい結論に至ってしまう。思い返される記憶の中には、もちろん甘酸っぱくて心地よいものも多かったけれど、どちらかと言えば自己嫌悪につながるような記憶のほうが多くて、嫌になる。

気づかないうちに自分の意見を押し殺して、相手の顔色を伺って、時間と心を削って相手に尽くしてきたことが、どれだけ重なっていたのだろう。初めは、対等に好き合って一緒に居たはずだった。だというのに、私はどうしてその関係性を自ら壊してしまうのだろう。ふと気づく。

「この世界に私を愛してくれる人はこの人しか居ない」と、恋愛をして少し経つと、いつも考えていた。だから、いつの間にか「愛する」ことが「尽くす」ことに変わり、やがて「嫌われない」ことに変わり、最終的には「捨てられない」ことに変わってしまう。愛情だと思っていたものは、愛情のようなナニカへと変貌して、私を狂わせた。

きっと、相手もそんな私の心中を察していたのだろう。「重い」といって離れる人もいたし、「お前が悪い」と刷り込んで都合よく利用しようとしてくる人もいた。いずれの相手も、初めは私に偽りのない愛情を向けてくれていたはずなのに、気がつくと、私と相手の関係は恋愛と呼べるような代物ではなくなっていて、良く言えば依存、悪く言えば主従関係のように変わっている。

私はただ、対等に好き合いたかっただけなのに、それだけのことが、とてつもなく難しい。これだけ繰り返せば、流石に相手ではなく自分に問題があることは分かっている。分かっているけれど、寂しさや相手の優しさが、正常な判断を阻害する。耳障りのいい言葉や優しげな笑顔が、私を期待させる。その裏側にある絶望になど目もくれず、また私はその沼へと一歩を踏み出す。

きっとこんな私の根底にあるのは、卑屈と言っていいほどに低く、ボロボロになった自尊心と、それに見合わず高まり続けたプライドや意地だ。「もっと私を見て、理解して欲しい。愛して欲しい」と本気で思っていながら、その裏腹では「私を簡単に理解しないで欲しい」とも思っている。そのアンバランスさが、私の恋愛や人生における不具合を生じさせているのだと思う。

これは私が私に送る一枚の手紙だ。もう、傷つかないように、傷つけないように過ごすのはやめてしまった私から、臆病だった私へ送る追悼の言葉だ。

触れられたら本当に傷ついてしまう部分を隠したまま、都合よく相手に受け入れてもらおうとした私へ。そんなことは、もうやめてしまってもいい。信じられないかもしれないけど、受け入れられないと思うけど、むき出しのあなたを受け入れてくれる場所はあるんだよ。これまで否定され続けてきたあなたのその一面に、笑って「いいね」って言ってくれる人は、この世界に生きているんだよ。

それは他人の中にではなくて、きっと、あなたの中にあるんだよ。

まずは、私が、私を受け入れてあげなくちゃ。「この世界に私を愛してくれる人はこの人しか居ない」ということは、裏を返せば、「この世界の誰も私を愛してはくれない」と思っているのだろうけれど、それなら、私がそのたった一人になってあげなくちゃいけないんだ。

そのたった一人が自信を持っておすすめする「私」という人間に魅力を感じてくれる人は、きっとこの世界に存在する。そんな相手と、今度こそ、対等に、本気の恋愛をしたいんだって、叫んでみよう。

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