似合わない生き方はやめよう

ずっと、見えない誰かと戦ってきた。
小学校に行って、中学校に行って、高校に行って、大学に行って。
就職をして、結婚をして、子どもを持って、退職をして、老後を迎える。
そういう人生の王道を辿ることが、当たり前で、それが幸せだと思っていた。

いつからだろう、僕にはそれが似合わないだと気がついたのは。

常識が偏見に変わる時

今の世の中は声を大にして言われるわけではないが、
何となくそういう人生の王道を辿ることが
ひっそりと風潮として残っている。
もちろん、そうではない人生も認められているけれど、
何者でもない誰かが作った「当たり前」で「幸せ」なルートを選べない自分を
時として責めてしまうことがある。

常識とは、偏見のようなものだ。

今まで生きてきた自分の価値観で語られるものであって、
世の中の一般常識なんて物は存在しない。
いわゆる常識と言われていることは、世の中の大多数の人間が知っていること、
考えていることであって、それは同調圧力よろしく、形のないしがらみだ。
それでもどうして、人は他人と比べてしまう。

「普通はこうでしょ」「皆はこうでしょ」という、
得体の知れない意見で縛られ、自らの首を絞める。
側から見れば馬鹿げた行為だが、本人はそう思っていない。
真面目に自分のことを考えている。
世界はもっと広いのに。世界はもっと大きいのに。
たかだか世の中で常識と呼ばれているものが如何に視野の狭いものか、
そんなことすらも考えられなくなってしまう。

自分で自分が見えなくなった時

自分で自分のことを苦しめていると、他人にもその考えを押し付けたくなってしまう。
他人のことを恨み、羨み、余計に自分の呼吸を遮るようになる。
自分と他人は生きてきた環境も、生きてきた人生も、生きてきた時間も全く異なるのに、
自分も他人も、同じ物差しで測ろうとしてしまう。
それはお互いにとって何も利益がないことであるのに。

世の中には、自分で自分を苦しめることが好きな人もいる。
いわゆる悲劇のヒロインと呼ばれる人で、自分が作り上げた、
ぬるま湯に浸かって満足をしている人だ。
自分で自分を辛くさせることが得意で、本当の自分を見ることが出来ない。
それは、本当の自分を見ることが怖いからだ。

自分が勝手に作り上げた物差しで、自分のことも他人のことも勝手に測り上げて、
それで苦しいと言うだなんて、なんて勝手なことだろう。

世の中のレールから外れる時

人生に正解なんてものはない。自分の首を絞める「当たり前」や「幸せ」に気づいて、
「本当に自分がやりたいことは何か」を見つめる方が、よほど人生のQOL(生活の質)が上がる。
それでもぬるま湯に浸かっていたいというなら、無理にとは言わないが、
もしも今の自分を変えたいというなら、一歩を踏み出してほしいと思う。
それはとてつもない勇気を伴うかもしれないし、それなりの覚悟をして望んでみてほしい。

僕の意見は、成功者の戯言だと言われるだろうか。

それでも、こんな記事を書いてる僕だって、別に成功しているわけじゃない。
そもそも、成功なんて物は存在しない。
「貴方はそうやって上手くいったから言えるんだ」と思うなら、
その「上手くいった」とやらはどこから来ているのか、それも考えてみてほしい。

今、貴方の人生は貴方らしく歩めていますか。

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