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8月31日が怖い
8月31日の絶望を、知っている。
明日から、また学校という地獄へいかなければならない苦しみや、学校に行けない自分を責めてしまう辛さは、きっと味わったことがある人にしか分からない痛みだ。
中学二年生の頃、夏の終わりが怖かった。
なにかと行動を共にしなければならない「班」のメンバーからのいじめで心が死んだ。
私が運んできた給食のおかずは食べてもらえない。ズボンをさげられる。机を運んでもらえない。日常茶飯事な悪口。
学校に行こうとすると頭が痛くなり始め、不登校になった。親に付き添われ、病院でMRIを撮影したけれど、原因は自分が一番よく分かっている。だから、苦しかったし、恥ずかしかった。
「いじめられている」という事実は、自分がダメな人間認定するのに十分な理由だった。
周りの目がある場所では友達のフリをして、裏では私を貶したあの子たち。ちゃんと友達になりたかった。「50円かけてるから、明日は学校にこいよ」と電話で言われても。
明日から、学校が始まる。それはいじめを受けている側にとって、心を殺されると同義語だ。
被害者だけに残る傷の重さ
私へのいじめは班替えが行われてから、落ち着きはじめた。少しずつ学校へ行けるようになり、変なからかいやいじりを受けることも、やがてなくなっていった。
けれど、一度受けた傷は決して治らない。理不尽なことに、その傷は被害者側だけが背負っていかねばならないことも多い。
成人後、いじめてきた人とネット上で言葉を交わす機会があった。「あの頃、○○されて辛かったよ」と勇気を出して伝えてみると、返ってきたのは「私そんなことしてないよ」という言葉と、なぜかその子の彼氏から「お前こそ、今そうやって責めて俺の彼女いじめてんじゃねえか」という罵倒だった。
いじめた側は忘れる。いじめられた側は忘れない。その差が、悲しかった。成人式に出ることを怖がっていた自分を抱きしめてあげたくなった。
夏の終わりに自分が生きやすくなる選択を下そう
「不登校」という状態になると、周囲の様々な声が耳に入ってくる。学校にいってほしいと願われても、無理して行かなくてもいいよと言われても、どちらも苦しい。自分の心を自分で責めてしまう。
そんな状態にもし、今あなたがなっているのなら、たった一言贈りたい。必死に頑張ったんだね と。
もがいても、もがいてもどうにもならない今が憎い。周りに好かれない自分が嫌い。将来なんて見えない。死にたい。消えたい。
それは全部全部、心の中にあっていい気持ち。そのままでいい気持ち。頑張った証拠。大丈夫。
学校に通う以外の学び方は、たくさんある。学歴は後から、認定試験でも取れる。一番大切なのは、生きていてくれること。笑えること。自分を殺さなくてもいい状況にいること。
8月31日は、「明日から学校に行かない」という選択を下してもいい日。
あなたは十分頑張ったんだよ。もうひとりで苦しまなくてもいい。信頼できる誰かと一緒に悩もう。私たちと一緒に、悩もう。
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