生きづらさの「解消」と「支援」の本質的な違いを本気出して考えてみた

cotonohaは、さまざまな境遇にある人が、さまざまな想いを言葉にして吐き出す場所。そして、フォーカスするのは世の中に蔓延る大小さまざまな「生きづらさ」だ。

僕たちライター勢も、それを読んでいるみなさんも、きっと多くの生きづらさを抱えていて、見え隠れする生きづらさのしっぽに心の安寧を脅かされながら生きている。僕はそれを「当たり前」にはしたくなくて、こんなふうに記事を書いたり、生きづらさを解消する事業を考えたりしている。

そのなかで、ひとつ、引っかかることがあったから、それをシェアさせてほしい。

生きづらさに対して人は何を思うのか

先ほども言ったけれど、人は大なり小なり「生きづらさ」を抱えながら生きる。それはもうどうしようもないことで、大脳が発達して高次の思考を手に入れた僕たち人間の宿命のようなものだ。避けられない。

でも、生きづらさはストレスになるから、人はどうにかしてその生きづらさをなくそうとする。もしくは、生きづらさを受容して、ストレスを感じなくしようと自分の考え方を変える人もいるだろう。

なんとなく、生きづらさに直面した人の思考のルートを想像してみると、次のようなものになると思う。

①得体のしれないストレス、我慢、苦しさに気づく。

②他者と比較し、どうやら自分だけが感じるストレス、我慢、苦しさなのだと気づき、解消しようと考える。

③振る舞いを変えても消えないストレス、我慢、苦しさ。どうしたものかと悩んだ末に、「これが生きづらさか」と気づく。

ここまでは多くの人が辿るはずだが、この先は細かくいくつもの分岐に分かれている。無限の可能性があるが、ここではアメリカの生理学者・キャノンに倣って、大きく「闘争」か「逃走」かに大別してみよう。

ちなみに、キャノンの学説は「人(動物)は危機に直面すると自律神経がはたらき、アドレナリンなどのホルモンが分泌されて興奮状態になる。その上で、戦うか逃げるか選択し、普段は出ないほどの力を使って全力で闘争か逃走をおこなう」という生理学的な考え方なのでこの記事の内容とは、ずれている。単に「生きづらさに対する反応は大きく2通りに分かれるんじゃないかな」程度の認識でいてほしい。

※キャノンの理論を詳しく知りたい方は、まずはWikipediaなどを参考にするととっつきやすくていいと思うよ。

参考:戦うか逃げるか反応│Wikipedia

生きづらさに「闘争」を仕掛けるタイプ

まず、生きづらさを認識したあとに、その生きづらさに対してけんかを吹っ掛ける「闘争」タイプについて少し話したい。こういう人はあまり見かけないけれど、経営者やクリエイターとして成功している人に良く見られる気がする。経営者でいえばワタミの渡邉社長、クリエイターでいえば村上龍先生などがこれに当たるんじゃないだろうか。

このタイプの人は非常に強固な信念や思考の型を持っていて、強烈であるがあまりに、ときには社会の規範や道徳すら逸脱してしまう。いっぽうで、ストイックさや芯の強さが常人離れしており、信じられないクオリティで物事を完遂したり、気圧されるほどの熱量を持っていたりする。気がする。

この常人離れした能力は、才能とか努力とか、そういう言葉では片付かない次元のモノなんじゃないかと、ときどき考える。こういう人たちは「そうせざるを得ないからそうしている」だけなんじゃないかと思う。知っての通り、自分のなかに巣食う生きづらさはなかなかしぶとく、一朝一夕の思考や行動で振り切れるものではない。呪いのようなものだ。

だから、生きづらさに人生を捻じ曲げられないよう、たくさんの経験や知識、思考をもとにひたすら強い自分の人格を練り上げて、自分の生きざまを描く。その生きざまに恥じないよう振舞った結果が、彼ら彼女らの持つ鮮烈な苛烈さや滲み出る自信につながっているだけなんじゃないかと思う。

非常に苦しい道だと思うので万人にはおすすめしないスタイルなのだけれど、個人的にはこういう人間が好きだ。だってカッコいいじゃん。

とはいえ、その苛烈さや自信ゆえに他者に優しくできなかったり、自信過剰になって人を見下したりする人も多い。個人的にはそういう人間が嫌いだ。だってカッコ悪いじゃん。

生きづらさからの「逃走」を企てるタイプ

もうひとつは、生きづらさを認識したあとに全力で逃げる「逃走」タイプだ。はじめに断っておくと、僕は逃げることはなんら悪いことではないし、堂々と胸を張って逃げていいと思っている。さっきも言ったけれど、生きづらさは呪いだ。呪いを解くために教会へ行く勇者を責める奴がいないように、生きづらさから距離を取ろうとすることは責められることじゃない。賢者らしいスマートな振る舞いだと思う。

ただ、最近は「中途半端に逃げようとする人」をよく目にするようになった。DSM-5に載るかもわからない、研究も進んでいない新たな生きづらさの名前をぽんぽん生み出して、生きづらさを中途半端に定義し、中途半端に逃げようとする人が多いように思うんだ。そしてこれも誤解されないように言っておくと、そのこと自体はとてもいいことだと思っている。自分を知るためには定義や新しい言葉が必要で、新しい定義や言葉が生まれるのは世界が前に進んでいる証とも取れるから。

でも、その「中途半端な定義の生きづらさ」をよりどころにして、「だから辛いんです」「苦しいんです」「配慮してください」と声高に叫ぶことには同意できない。陳腐な定義で推し量れる程度の生きづらさじゃないはずなのに、自分が楽になりたい一心で、考えることをやめてしまっているように見えるから。

だけどやっぱり責められない。人はそこまで強くはないから、生きづらさへの対処で精一杯になるのは当たり前だ。対処方法の正しさを問い始めたら、この世界に正しい人間はいなくなる。

生きづらさに「解消」と「支援」があるのはなぜか

ここで本筋の話に戻ろう。僕は別に誰かを糾弾したいわけでも、偉そうに語って悦に浸りたいわけでもない。章題のとおり、なぜ生きづらさの「解消」と「支援」という2つの考え方があるのか、ということについて話したいだけなんだ。

個人的な定義だけど、大まかに「解消」は「革命」と言い換えられるし、「支援」は「応急処置」と言い換えられる。もう少し詳しく説明してみると、以下のような感じだ。

あー、親がDVだったせいで大人が怖いし、生きづらいなぁ

小野澤

小野澤くんは「親のDV」というトリガーによって、「大人が怖い」という生きづらさを抱えてしまったらしい。そして、彼はAとBという2人の人間からこんな話を持ち掛けられる。どちらに興味を持つか、いっしょに考えてみてほしい。

A「大人への恐怖心を緩和するプログラムをやっているよ、参加してみる?」

 

B「DVを根絶する活動をしているよ、よかったら覗いてみる?」

さて、小野澤君が興味を持つのはどちらだろう。

間違いなく、Aのプログラムのほうだろう。自分の生きづらさが緩和できるのだから、当たり前だ。ではBの根絶活動には一切興味がないのかというと、きっとそんなことはない。でも、順番としてはまずAのプログラムで大人への恐怖心を取り除き、自分に余裕が出てからBの根絶活動を一緒におこなうほうがよさそうだ。なんというか、そのほうが幸せになれそうだ。

圧倒的に「支援」が多く、「解消」が少なく見えるのは僕だけか

もうお気づきの方もいるかと思うけれど、上の例で言うところのAが生きづらさへの「支援」で、Bが生きづらさの「解消」にあたる。どちらも生きづらさに悩む人を救う、大切な取り組みだ。

でも、ぐるりと世の中を見渡してみると、Aの「支援」ばかりが充実していて、Bの「解消」や「根絶」に向けた動きがあまりに不足しているような気がする。なぜなら、生きづらさの解消を民間企業や個人がおこなうのはあまりに難しいからだ。

言葉を選ばずに言えば、Aの「支援」は、簡単な取り組みであれば狂気じみた熱意さえあれば誰でもできる。ボランティアがその例だ。でもBの「解消」は、熱意に加えて、構造を俯瞰する高次の思考力が求められる。

たとえば、吉藤オリィさんのような活動は生きづらさの解消にあたる素晴らしいケースだ。身体が動かない人も操作できる分身ロボット「OriHime」を開発し、当事者がベッドの上にいながらどこへだって行ける世界を創ってしまった。

きっと吉藤さんは、寝たきりの生活を余儀なくされた方々が抱える生きづらさの本質を分かっていたのだと思う。思うに、寝たきりの方の生きづらさの本質は身体が動かないことではなく、世界と接続する機会が失われ続け、強烈な孤独や罪悪感、無能感に苛まれる日々の中にある。

だから、当事者の身体を動かしてあげるのではなくて、身体が動かなくてもいい仕組みを作ることで救えるものがある、と考えたのだと思う。こうした思考や発想は、Aの「支援」に目を向け続けていると、なかなか生まれにくい気がする。

なぜなら、支援はミクロな世界で常に絶望の最前線に立ち続けているのに対して、解消はマクロな世界でものごとを俯瞰し、本質を見抜く必要があるからだ。つまり、すぐに「可哀そう」とか「何か自分にできることは」とか考えるのではなくて、「この構造は何が原因なのか」「問題の本質は何か」を問い続ける作業が必要になるわけだ。障がいやハンディキャップといったセンシティブなテーマを前にして、いったん感情を置いて、構造を俯瞰する視点を持つというのは、けっこうサイコパスじみているとも言える。

先ほど、『熱意に加えて、構造を俯瞰する高次の思考力』が必要だと言ったのは、こういう理由だ。生きづらさを解消するためのアイディアは、支援とは異なる思考回路をつながないと出てこない。断言するが、支援の延長線上に解消はない

僕は支援よりも、生きづらさを解消するための事業に命を燃やしたい

流れ出る血をいくら拭いても血は止まらない。止血をして、血小板が傷口をふさがないと、血は止まらない。ケガの再発を防がないと、ケガ人は減らない。

生きづらさだって同じことだ。生きづらい人のケアは当然必要なのだけれど、同時に「もう生きづらい人が生まれないように構造を変化させる」取り組みだって、必要に決まっている。けれど、現実は支援に奔走する人ばかりで、解消に目を向ける人は多くない。

ボランティアに参加する人は多いけど、社会起業家になる人は少ない。
募金活動に参加する人は多いけど、募金先の人たちが募金なしで生きていけるよう本気で動く人は少ない。
障がい者の支援事業に参入する人は多いけど、障がい者が障がい者のまま生きていける社会を作ろうとする人は少ない。

僕には、そのアンバランスさが、不気味に思えてならない。本当のところ、誰も責任を取りなくないんじゃないかとすら思えてくる。穿った見方だけれど、自分が「善行だ」と信じられる範囲で、社会的に「善いことだ」と太鼓判が押されている範囲で、それっぽく支援をしたいだけの人間が多すぎて、嫌になる。

生きづらさを抱えている原因は誰にあって、どうすればより幸せになれるのか。そのシンプルな問いは、シンプルであるだけにとても鋭く重い。考えていけばいくほど分からなくなって、分かりやすいところで妥協して、とりあえず何か行動してみて、自分や他者を救った気になれれば、いっときはその問いに対する答えを得た気持ちになる。でも、いつまで経っても生きづらさはなくならない。

だから、僕は。
だから、僕たち、Break Roomは。

あなたの生きづらさに対して、安易な共感はしたくない。同情もしたくない。ほんとうは、そんな安っぽいものであなたを安心させたくはない。僕らだって、そんな感傷で仕事をした気になってはいけない。たった1ミリでもいいから、世界を変えてみせたとき、初めて僕らは仕事をしたと言えるんだ。

安易な共感も同情もしてあげられない僕は、代わりに、あなたが抱えて生きている生きづらさと、その生きづらさを生み出した周りの構造を指さして、あなたの代わりに言ってやる。「ふざけんな」と。

生きづらさに飲まれず抗おうとするあなたに、僕は「支援」はできないかもしれない。その代わりに、その生きづらさがこの社会から消え去るように全力を尽くす。あなたからも、誰からも、同じ生きづらさが生まれないような仕組みを考える。結果が出るまでにタイムラグがあって、きっとあなたを助けてあげられないかもしれないんだけれど、それでも約束したい。

2021年の夏休みが終わる日。8月31日。僕らは生きづらさを解消するために、法人を設立した。
見たことのない地平を目指して、前へ進みます。分かりやすい「支援」はできないかもしれないけれど、「解消」に向けて全力で取り組むから、これからもよろしくお願いします。

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