誰かを羨むくらいなら

僕は、いわゆる「普通の人」とは違った特性を持っている。
そして、「普通の人」が当たり前のように出来ることが、僕には出来ないときがある。

トランスジェンダーの僕は、「普通の人」と同じように、他人に裸を見せることが出来ない。
発達障害でADHDの僕は、「普通の人」と同じように、仕事をこなすことが出来ない。
解離性同一性障害の僕は、「普通の人」と同じように、記憶を保つことが出来ない。

それでも僕は、羨ましがられることがある。
僕と同じ障害を抱える当事者からも、僕からすれば「普通の人」からも。
Twitterを始めてから、他人から羨ましがられることは顕著に増えた。

「いいなあ、才能があって」。

僕からしてみれば、「この人たちは何を言っているんだろう」と思う。

トランスジェンダーの僕は、幼少期から性別に対する苦痛を抱えてきた。
発達障害でADHDの僕は、幼少期から自分の不甲斐なさに悩んできた。
解離性同一性障害の僕は、幼少期から記憶がなくなる現象を感じてきた。

高等教育機関を卒業した僕は、一般企業に男性として就職した。

「普通の人」との差に葛藤してきた僕を知らない人間は、僕が幸せそうに見えるのかもしれない。

「僕は苦労してきたんだ!分かってほしい!」と主張するつもりはない。

ただ、僕は僕なりの人生を歩んできたわけであって、外からは見えない時間を重ねてきた。
僕は、人よりも何倍も不器用だった。
幾度とない葛藤に苛まれながら、幾度とない困難に立ち向かいながら、
ようやく今の僕を手に入れたのだ。

足掻いて、もがいて、必死だった。理想を追い求め、
現実に頭を抱え、その狭間で僅かに呼吸をしながら、そうして過ぎていく日々を送った。
僕が歩いてきた道には、僕だけが残した足跡があって、
僕は、生きようと叫んでいた。それだけだった。

「いいなあ、才能があって」。

才能と片付けられた世界の中に、僕しか見えない世界がある。

僕は、才能があるわけじゃない。
僕はずっと、生きてきただけだ。

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