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夢は「叶えるもの」から「シェアするもの」へ

僕たちは、七夕に飾る短冊や小学生の頃に埋めたタイムカプセル、卒業文集から「あなたの夢はなんですか」と問われ続けてきた。夢を持つのが当たり前で、叶えるために努力するのが幸せ。叶わなかったときはPDCAを回してソリューションを見つけないとアグリーされない、そんな世界に僕らは生きている。

こんな世界に嫌気が差したのか、近年は「夢なんてなくてもいいじゃない」と豪語する人もちらほらと見受けられるようになってきた。特に若い世代に多い気がする。23歳になった僕の周りにも「夢なんてなくてもいいでしょ」と語る友人が増えてきた。負け惜しみでなく、心からそう思えるのなら、それより幸せな道はないのかもしれないな、なんて思う。

僕らは「夢」に夢を見ている。今抱えている辛いことや悲しいこと、過去の失敗や見た目のコンプレックス、自分の努力不足など様々な負の要因全てをかっさらって、どこか明るい別世界へ自分という個体を連れて行ってくれる天使のように、夢を扱っている。けれど、きっとそんなことはない。夢を叶えた先にあるのは、ただ、全ての負とともに立つ、特定の目標を叶えただけの「あなた」だ。

生活をガラリと変えたとしても、心根は変わらない。思考のクセや見た目のコンプレックスは何一つ変わらない。夢はあくまで、テストの特定の問題に「◯」と答えられたというだけだ。その「◯」ひとつでテストが100点になることはない。

それでも、僕らがこれほどまでに夢というたった一つの「◯」にこだわるのは、100点が欲しいからでも、負の要素を全て取っ払ってくれるからでもないはずだ。シンプルにその問いが好きだから、正解したいから、手にしたいからがむしゃらになるのだと思う。本当に夢を追っているときは、その先のことなんて、どうだっていいはずなんだ。

だとすれば「夢を叶えたら✕✕が△△になるから今よりもっと〜〜に…」なんて打算的に考えて追い求める夢は、本物とは言い難い。強いて言えば「今よりもっと〜〜に」の部分は、きっと夢に近い。「なぜ〜〜でありたいのか」を突き詰めれば、夢の正体にたどり着けるのだと思う。

さて、ところで、あなたは「夢を叶えた」ことはあるだろうか。「ないよ」と答える人が大多数だと思うけれど、本当にそうだろうか。忘れているだけじゃないだろうか。もう少しよく考えてみて欲しい。

例えば高校入試。入りたくて仕方ないと思っていた高校へ進学できた中学3年生のあなたは、確かに夢を叶えている。

例えば大学生になる直前。憧れのキャンパスライフに胸を焦がしたあなたは、まだ見ぬ知識や恋愛、友人関係、新たな環境での暮らしに期待を膨らませて、意気揚々と飛び込んでいった。そこで、自分なりに自由を謳歌し、人生を見つめて、答えを出したはずだ。

だというのに、それを「夢を叶えた」と思えないのはどうしてだろう。さっきの話を持ち出せば、僕らの「夢の定義」が間違っていただけなんだと思う。夢が叶えば全てが思い通りになって、自分の嫌いなところが消えて、自分を好きになれて、もっと素敵な人間になる…そんな重責を、夢というたった一語に乗せきってしまっていたんじゃないかと思う。それではプレッシャーをかけられすぎた夢も、そんな重圧とともに夢を見た純粋なあなたも、可哀想だ。確かにあなたは、小さく、でも確実に夢を叶え続けてこの世に存在しているはずだ。

もっと言えば、夢を追っているとき、その夢の先に何があるかなんて、僕ら人間には想像もできない。なぜなら人はいつも、自分の想像力の上限を夢と、下限を絶望と呼ぶから。夢は宇宙のはてと似ているようにも感じる。成長するのに伴って想像力の限界も広がっていくから、見えたり届いたりする範囲が広がっていくのに、いつまで経ってもその先は見えないし、たどり着かない。

つまり、僕らはいつかの僕らが夢見た世界の先にいるのだと思う。分かりやすく言えば5歳の自分が想像もできなかった「大人」という生き物になって、「社会」という世界に加わりながら、あの頃は想像もできなかった経験を毎日毎日味わっている。5歳のあなたが、今の自分を想像することなどできるわけがないし、きっとする必要もない。

だとしたら僕らは、いつまでも実態の分からない「夢」というものに全ての責任を投げてはいけない気がする。今の自分が抱えている負の要素を全て取り去ってくれる天使のように夢を崇拝するのは、言ってみれば、地球に住んで、地球の資源を食いつぶしながら宇宙のはてばかり夢想しているようなものだ。足元には僕らが味わうべき幸せな時間が転がっているのに、夢という曖昧なものに全額BETして逃避し、今を蔑ろにしている人は、少なくない。

本気で夢を追っているときはその後のことなど気にならない。それなら、頭で色々と考えて夢を建築している時点で、それは人工物だ。もっと衝動的に自分を駆り立てるものが夢だとしたら、僕らが夢を見つけて、追いかけて生きるために必要な手段はたった一つ、今の自分に目を向けることだ。足元に散らばる幸福の欠片を拾い集めて、大切に繋ぎ止めて、もう一度丁寧に味わいなおすことだ。そうすれば、人工物じゃない、天然物の夢に出会える。

と、ここまでは前置きに過ぎない。

僕たちの多くが描いてる「夢」は、短冊に描いたりタイムカプセルにしまったり、卒業文集に記したりした「夢」とは一線を画す、新たな形態に突入するべきだと思う。つまるところ、「叶えるもの」から「シェアするもの」になっていくべきなんじゃないかと思う。現実的なことを言えば、すでにクラウドファンディングという手段で「夢のシェア」は始まっていたのだけれど、ここで言う「シェア」はもう少し精神的なものだ。

人生は長いようで短い。だというのに、夢は叶えたそばから湧いて出てくるから、身体がいくつあっても足りない。そんな僕らが満足しながら夢を叶えるために必要な手段は「共有」することだと思う。つまり、同じ夢を持った人同士が集まって、力をあわせて夢を叶えること。注意してほしい点として、「夢」によく似た「欲」を叶えるために人が集まるとロクなことにはならない。だから会社が嫌いなんだ…。

夢をシェアする利点として一番大きなものは「誰かが夢を叶えれば成功」になる点だ。例えばcotonohaメディアの運営母体であるBreak Roomは「世の中の生きづらさを解消したい」という夢を掲げている。あまりに広い夢だから、どうすれば完全に叶ったと言えるのかはまだ分からない。

しかし、メンバーはそれぞれに異なる出自を通して、それぞれの生きづらさを抱えているから、メンバーひとりひとりが抱えている生きづらさと向き合い、解消できれば、その全てがBreak Roomの成功になる。誰かの成功を他人事としてではなく、自分ごととして捉えられる。単純に考えて、めちゃくちゃにコスパが良いのだ。これが「欲」を叶えるために集まった集団だったら、自身の欲望を叶えるために少ないパイを取り合い、敗れた人は精神や時間が削られていってしまう。

夢を叶えることや、夢を叶えるために生きることは、人を美しくしてくれると思う。けれど、世の中では「夢」という言葉にあまりに大きな成果を求めすぎていると感じる。その上、夢を持つことが絶対的に必要なものだと認識されているから、「やりたいことが分からない」という悩みまで生じている始末だ。そもそもやりたいことなんて、分からなくていいと思う。

まずは、今足元に転がっているはずの幸福の欠片を味わおう。そして、これまで無数の夢を叶えてきた自分を褒めてあげよう。「この夢を叶えていない自分」ではなくて「こんなにたくさんの夢を叶えてきた自分」と出会おう。ほんの少しだけでも、視界や世界がひらけてくるんじゃないかと思う。