人間と自転車のタイヤと僕の話。

凹んだら、きっと誰かが空気を入れてくれるから。人間って、そういうこと。

東京都自殺相談ダイヤルの広告に使われている、キャッチコピーだ。

僕は、自転車のタイヤに空気を入れるのが苦手だ。

わざわざ自転車屋に行かなければならないことが、面倒だと思う。タイヤのキャップを外し、空気入れのホースを持ち、力を込めて空気を入れる。たったそれだけのこと。だけど、僕にとっては荷が重い作業だ。順番待ちをされていると「早くしなければ」と焦って手がもたつくし、空気入れのホースが絡まって自転車を倒しそうになるし、器用にスマートに空気入れという作業をこなすことが出来ない。

ついこの間、自転車のタイヤがパンクした。

タイヤに空気を入れるのを怠り、そのまま走り続けた結果だった。タイヤのチューブが破れ、普通のパンク修理では直らなかった。購入先の自転車屋に修理を頼んだ。「ちゃんと月に1回は空気を入れてあげてくださいね」と店員に言われた。僕が自転車を使う時は、大抵が急いでいるときで、自転車のタイヤに空気を入れに行くのは、気が向いたときだった。修理から戻ってきた自転車の乗り心地は最高で、僕は自転車のタイヤに空気を入れることの重大さを知った。

人間と自転車のタイヤは、似ているのかもしれない。

定期的に空気を入れる。調子が良いときはグングン前に進めるけど、空気が抜けると途端にスピードが落ちてしまう。誰かに空気を入れてもらわなければ、すぐに萎んでしまって使うことが出来ない。人間には「凹んだ」という言葉があるけれど、文字通りに空気が減って凹むことを表しているのではないか。もしそうだったとしたら、人間は空気が入った、人型の風船みたいに思える。だから空気を入れるということは、きっと「前へ進むための行為」なのだと思う。

誰かって、誰が空気を入れてくれるのだろう。

自分で空気を入れることが出来るなら、それが一番良い。何故ならば、空気の入れ方も、空気の量も、適当な具合が分かりやすいだろうから。家族、恋人、友人、知人、先輩、後輩、同僚、上司、部下…身の回りの人間を表すには、たくさんの言葉があって、こうした人も、自分に空気を入れてくれる人になってくれるだろう。自分や身の回りの人間が空気を入れられる場合、どんなに辛いことがあっても、乗り越えられる可能性は高い。

だけど、それが出来ないときもある。自分が空気を入れられるほどの余裕がなかったり、身の回りの人間に空気を入れることを頼めなかったり、そうしたときが訪れると、人間として世界に存在することがしんどくなる。世界で自分がたった1人ぼっちになったように思えて、思考回路が行き詰まっていく。思い通りに動かない頭を使って、世界の海を彷徨って、空気が抜けていくばかりの身体を動かして、そんなことが続くと、人は「死にたい」気持ちを抱えるのだと思う。

僕はきっと、自分の空気を入れるのも苦手だ。

世界が真っ暗に見えて、どこにも光がなくて、どうしようもなく孤独になる日がある。そんなとき、僕はふと「死にたい」気持ちに思いを馳せる。闇が漂う世界を眺めながら、「死にたい」気持ちに寄り添ってみる。そうして世界を見つめていると、段々と夜が明けるように、視界が広くなっていく。世界が少しだけ明るくなったら、僕は好きなことに取り掛かる。しばらくすると、僕は自分で空気を入れて、そうして日常に戻っていく。それが、僕の空気の入れ方なのだと思う。

自分に空気を入れられないとき、自分にも身の回りの人間にも、空気を入れられる人間がいないときは、ただ立ち止まって、世界に存在しているだけで良い。「死にたい」気持ちを認めて、空気が足りなくなるまで前に進み続けた自分を、そっと褒めてあげたら良い。世界が暗闇に放り込まれたように思えても、空気を入れてくれる誰かがいなくても、きっと空気を入れられる自分がいるから。その自分を見つけ出すまでは、ぼうっと世界を眺めるだけで良い。

人間と自転車のタイヤは、空気を入れることが必要だ。「前へ進むための行為」として、欠かせないものだ。僕がまた「死にたい」気持ちを抱えたときは、世界が真っ暗に見えたとき、空気を入れられる自分を見つけるまで、世界の片隅に存在するだろう。だからこの記事を読んだあなたも、空気が足りなくなったら、そっと「死にたい」気持ちに寄りかかってほしい。空気を入れられる自分が、どこかにいることを信じて。

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